【廣島・原爆瓦】
この古い瓦の破片は昭和20年8月6日に廣島市に投下された原爆により被爆し表面は発泡状の痕跡が
認められます。爆心地で採取されたものです。
【其の弐】
【長崎・原爆瓦】
この瓦片は当時旧長崎医科大学法医学教室焼け跡より採集したものです。
昭和20年代に長崎で極めて少数販売された原爆瓦。
熱線の直射を受けた瓦の表面はすべて沸騰して泡立ち,被爆瓦特有の
発泡状の痕跡を残しています。近距離のものほど泡は大きい。
博物館でしか見られない貴重な忘れてはならない資料です。
【其壱】
【其弐】
原爆瓦についていました「平和のしおり」です。昭和20年代
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【一枚のセピア色の写真】
軍医少尉と軍用犬ジョン
父が亡くなり1年6ケ月の歳月が過ぎました。父は90歳の年齢まで内科医として医療
に従事していました関係上,医学雑誌を含め数多くの書籍が残りました。私は時間の
許す限り豊中の実家に帰り父の遺品を整理していましたところ一冊の古いアルバム
が出て来ました。写真の説明に「昭和19年5月中旬第八号病室中庭ニ於テ愛犬
ジョンヲ連レテ」と記述がありました。この写真は子供の頃見た記憶があり暫く見つめ
ていました。父は豊中市医師会に主として趣味の漢詩,陶芸についての随筆を書い
ては投稿していました。数ある随筆の中に「原爆体験記」という題名で投稿していた
文書を見つけました。父は廣島での原爆被爆者でしたが生前は原爆については多く
を語ってはくれませんでした。父が愛犬ジョンと写っている一枚の写真に再度出く
わし昭和20年当時の廣島の状況がいかなるものであつたか調べようと思うように
なりました。そこで父の日記文献などを読み返し資料集,写真集等々も入手して
調べました。又陸軍病院の院長のご遺族にもお会いして当時の状況も聞きました。
「原爆体験記」の内容は文語体で書かれていましたが要約すれば以下の通りと
なります。原爆の投下された昭和20年8月6日は快晴で蝉が盛んに鳴き,8時を
過ぎた頃廣島第ニ陸軍病院本院15号病棟において総員15名の看護婦が整列を
終え,朝礼が始まろうとした時に突如頭上に爆音が聞こえ,皆が爆音の方向に耳を
そばだてた正にその瞬間に閃光が天地一面を覆いその直後轟音とともに建物が
倒壊しました。父達は倒壊家屋の深く埋まり身躯四肢末端にまで重圧がかかり
微動すら出来なくなりました。そのうちに周囲から火災が発生しましたが父は幸い
にも瓦礫の上方に微光を認め蝉のもぬくが如く力んで悪戦苦闘の末奇跡的に脱出
できました。廣島第ニ陸軍病院本院は中国軍管区司令部があった廣島城郭一帯の
北西部に位置し太田川に隣接して建造されていました。太田川の土手には並木道が
あり春には桜花が咲き患者が療養を兼ねて散策していました。世界最初の原爆は
廣島産業奨励館現在の原爆ドーム付近の上空570mで炸裂しました。
廣島第ニ陸軍病院本院は爆心地から僅か北方800mの距離に位置していました
ので原爆炸裂後第二陸軍病院本院の建物は炊事場の煙突1本を残して全病棟が
倒壊全焼し軍人及び医療従事者の75%が即死しました。文献では当日約750名
の患者が入院し職員約330名が勤務していました。辛うじて脱出できた人も原爆症
で数日以内に亡くなりました。父が瓦礫の中から這い出た後,目にした光景はまさに
地獄絵であり太田川は死屍累々として白砂を真っ赤に染めその酸鼻,その悲惨は
筆舌に尽くし難いと記述していました。その後父は廣島市の北東6km離れた戸坂
国民学校(現在の戸坂小学校)に原爆症状が出現しながらも牛歩のごとく身を運び
午後になって戸坂国民学校に辿りつきました。面識のない他部隊の5名の軍医と
共に医療活動を行っていましたが遂に病に倒れ臥床しました。その後生死の境を
さまよったようですが助かり故郷の福山に帰り療養していました。私はこの間の経過
については父からは一言も聞くことはありませんでした。実際に父が被爆した場所が
現在どのようになっているのか確かめたく再三廣島に足を運びました。
第ニ陸軍病院跡には現在市営住宅が建てられて昔の様子を彷彿することは出来ま
せんでしたがただ陸軍病院本院の通用門の門柱のみが太田川沿いに昔の面影を
残してそびえ立っていました。そばには第一陸軍病院の門柱を土台とした
廣島陸軍病院原爆慰霊碑が建てられ石碑に原爆で亡くなられた全廣島陸軍病院
職員の名前が刻まれていました。平成19年には広島平和祈念公園の慰霊碑の
名簿に父の名前も納められました。今年は広島に原爆が投下されて63年目に
なりますが未だに原爆後遺症で亡くなられる方々が年間に5000名以上も
おられます。被爆された方々も平均75歳となられた現在原爆症認定基準も高い
ハードルがあり被爆者の救済を否定する制度には不快を感じます
。私達は昭和20年8月6日世界最初の原爆が米国政府により投下され無辜の民衆
が殺戮された冷酷非道な歴史的事実を忘れてはなりません。最後に廣島・長崎で
被爆され亡くなられた方々のご冥福を祈りつつ戦時生活の風化の叫ばれている
今日,当時の状況の片鱗たりとも知って頂けたなら幸甚と思います。
(平成20年8月6日)
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【鎮魂の大日本帝国陸海軍の管理様(憂国烈士)より以下のコメントを頂きました
ので一部を御紹介します。】
広島の原爆公園の記念碑に「二度と同じあやまちを繰り返しません」という言葉が
刻まれております。過去に小野田陸軍少尉が此処を訪れた時に「これは誰が誰に対
して謂っているのか?」と述べた話は有名ですが誰が考えても原爆投下も東京大空襲
も米国が行った人道への最大の罪です。まさに無差別大量虐殺です。あの国に人道
を語る資格などありません。少なくとも戦時下の日系米国市民扱いを謝罪した時のよう
に,原爆投下を正当化せず・・・・・人種差別の果てに犯した過ちであることを謝罪するま
では,私達は米国に謝罪を要求すべきです。間違っても自虐に自虐を込めて「二度と同じ
過ちを繰り返しません」などと刻んで欲しくはありません。
毎年8月が来る度に・・・長崎・廣島,そして敗戦を思い出させます。そして長崎・廣島
以上の被害を出させた東京大空襲やその他,全国の都市空襲・・・まさに民間軍事の
区別なき無差別絨毯爆撃・・・徹底した焦土化は人の心を持つ者が到底行え得ない
所業です。我々,日本人は決してこの米国の行った非道を決して忘れてはならないと
思います。被災現場となった廣島と長崎では生き残った軍医・日赤・大学病院などの
勤務医,街の勤務医がみずからも被爆し被災者でありながら懸命の医療活動に従事
しました。しかし被爆により医療を受ける必要がある重傷者の数は余りにも多く,
薬品無く交換するガーゼも消毒する消毒液も無い有様で手探りでの必死の医療活動
が繰り広げられましたが,毎日が,亡くなる方を看取るだけの地獄日々が続いた
そうであります。その戦場を遥かに凌駕する地獄絵図を必死に堪えて医療活動を
行った全ての医師と看護婦達に後世に生きる日本国民の一人として感謝の意を
表したいと思います。後に被爆による障害や発癌で無念の死を遂げられた方も大勢
居られると思います。又生涯にわたり被爆による後遺障害に悩まされた方も大勢
おられると聞き及びます。心無いものの謂われなき差別で被爆者の方が同胞より
差別を受け,被爆体験をひた隠しにして生きなければならない実態がこの周辺地域
にあった事は実にやるせない想いが致します。今も尚,原爆投下を正当化し正式な
謝罪もしない米国に強い憤りを感じずにいられません。
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【平成21年6月14日毎日新聞に掲載されました軍医少尉の記事です。】
【平成21年7月1日朝日新聞に掲載されました軍医少尉の記事です。】
【平成21年8月6日毎日新聞の記事です。】
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