【銃後の遺品・従軍看護婦の遺品】
【戦前警察制帽・上衣】
戦前の警察官の制帽です
戦前の警察官の上衣です。
内部の記名欄は未記入でした。
戦前警察夏上衣
日の丸寄せ書き「武運長久」豊中警察署長
警察官用刀剣(刀身は模擬刀です。)其壱
其弐
【短剣】
【陸軍軍属胸章】
高等官と判任官
【警防団のメガホン】
警防団員はこれで「空襲警報」と発したのでしょう!
【戦時ラジオ・国民四号受信機】
戦時中の国民四号ラジオです。真空管など完璧なまで部品は揃っています。
【撃墜されたB-29の破片】
昭和19年6月16日北九州で撃墜されたボーイングB29の破片,
釘彫で19.6.16撃墜セル○ボーイイングB29○鴨○駐屯地○山内の記名あり。
【大日本国防婦人会】
国防婦人会の鞄は希少です。
【陶器製のマッチ箱】
陶器製のマッチ箱です。丸い穴部分にマッチを入れ、一方に摺り木が付いています。
戦時のスローガン「必勝」「護れ大空」「一億一心」「総てを戦力」「八紘一宇」が入っています。
【米軍機から投下されたM69焼夷弾】
M69焼夷弾48発を,まとめて1発とした集合焼夷弾。集合焼夷弾は空中で
弾体が開き中のM69焼夷弾はバラバラになって落下します。
戦時中三重県津市にお住まいのお方から体験談をお話頂きました。
焼夷弾が集中して落下して地面にたたけつけられた時の轟音は
凄まじいと語っておられました。防空壕の隙間でB-29から焼夷弾が
投下されるのを目撃されました。
其の壱
其の弐
【従軍看護婦】
真白き富士の気高さを こころの強い楯として 御国につくす女等は
輝やく時代の山ざくら 地に咲き匂う国の花
老いたる若き諸共に 国難しのぐ冬の梅 かよわい力よくあわせ
銃後に励む凛々しさは ゆかしく匂う国の花
勇士の後を雄々しくも 家をば子をば守りゆく 優しい母や又妻は
真心燃ゆる紅椿 うれしく匂う国の花
御稜威のしるし菊の花 ゆたかに香る日の本の 女といえど生命がけ
こぞりて咲いて美しく 光りて匂う国の花
【愛国の花】
https://www.youtube.com/watch?v=oPAltkgWTm0
【従軍看護婦の看護帽・看護被服】
日本赤十字社・従軍看護婦正帽(注意がない限り展示しています遺品は全て当時使用された実物です。)
帽体は麦藁編みで出来ています。この為現在の技術では再現不可能
とのことです。複製品はこの部分はフェルト仕上げとなっています。
皇紀二千六百年に日本赤十字社甲種救護看護婦養成所を卒業された生徒
看護婦正帽を被っています。
日本赤十字病院での看護帽
陸軍病院での看護帽(野戦用)
日本赤十字での野戦用看護帽・赤十字は野戦用には見られませんので後付でしょう。
日赤従軍看護婦防暑帽『其の壱』
『其の弐』
陸軍病院看護婦の手術帽
長閑な光景です。
日本赤十字社救護員章
【其の壱】
昭和12年の日華事変に際し組織された日赤従軍救護部隊の認識章です。
裏面に「東京支部第五九號」の刻印があります。
【其の弐】
【日本赤十字看護婦用バッジ】
襟元をこのバッジで止めました。
【陸軍病院看護婦用のバッジ】
赤十字のバッチとの違いは星章があることです。
【明治37.38年日露戦争救護記念錆章】
日本赤十字社の明治37・38年戦没救護記念章で従軍した医師や看護婦に
贈られるた物だそうです。
希少な日本赤十字救護看護婦1種制服
当時の質のよくない紺サージで出来ています。
【其の弐】
看護婦用被服(野戦用)・ネクタイが付属していますので看護婦長(現在の看護師長)の衣服と考えられます。
日赤看護婦診察衣(野戦用)
看護婦,婦長,総婦長の身分を示す桐花章をつける穴が3個あります。
袖も紐で絞めるようになっており実用的になっています。
日赤の支給品で南方用看護婦下着です。
看護婦衣類
日本赤十字社奉仕団バッチ
軍医が使用した白衣
陸軍衛生部「手術着」
陸軍衛生部「白衣」
患者用病衣
袖に赤十字章がついています。
従軍看護婦用編上靴
まずお目にかかれません稀少な看護婦用革靴です。
サイズは22cm~23cm
アルマイト製衛生用品入れ
カットした脱脂綿やガーゼをいれました。
看護婦用飯盒
看護婦用飯盒(其の弐)
看護婦用水筒
救急嚢壱号
ホウロウ洗面器、長径32cm、高さ8cmです。
広島陸軍病院での看護婦の衣服・野戦用衣服を着用しています。
看護婦は通常陸軍病院内では白衣着用で勤務していました。
正装の看護婦達
病衣に付ける臂章です。
1本線:下士
2本線:準士官
3本線:将校及び同相当官
当時の円形の眼鏡です。
昭和13年4月18日廣島陸軍病院
病院船バイカル丸船内にて(其壱)
病院船バイカル丸船内にて(其弐)
【日本赤十字社病院皇紀ニ千六百年救護看護婦生徒卒業記念】
皇紀ニ千六百年(昭和十五年)に日本赤十字社を卒業されたお方の卒業アルバムです。
院長・副院長そして日本赤十字社病院(東京)です。
養成部長・前看護婦監督・看護婦監督そして養心寮
【日本赤十字社救護看護婦生徒の卒業証書】
【○○看護婦の看護免許証】
これは稀少な戦前の看護婦免許証です。(戦前の看護婦は都道府県知事の管轄下にありました。現在は厚生労働省です。)戦前の医師免許証と同様滅多にお目にかかれません。
この写真の中のお一人がこの卒業アルバムと看護婦免許証の所持者でした。
看護婦の認識票(臨東一・二将 ○○看護婦 0型 二四才と判読出来ます。)と桐花(とうか)章
【日赤救護員手帳】
台湾の台南陸軍病院配属の日赤第三三一救護班班長をされておられた方の
所有の手帳で、大東亜戦争の開戦に伴い、昭和17年1月に応召動員され、
昭和19年5月まで台南陸軍病院配属されていました。非常に希少な
日本赤十字社救護員(救護書記)手帳です。
【日赤救護員手帖】【其の弐)
火筒の響き遠ざかる 跡には虫も声たてず 吹きたつ風はなまぐさく くれない染めし草の色
わきて凄きは敵味方 帽子飛び去り袖ちぎれ 斃れし人の顔色は 野辺の草葉にさもにたり
やがて十字の旗を立て 天幕をさして荷い行く 天幕に待つは日の本の 仁と愛とに富む婦人
真白に細き手をのべて 流るる血しお洗い去り まくや包帯白妙の 衣の袖はあけにそみ
味方の兵の上のみか 言も通わぬあだまでも いとねんごろに看護する 心のいろは赤十字
あないさましや文明の 母という名を負い待ちて いとねんごろに看護する 心のいろは赤十字
【婦人従軍歌】
【日本赤十字病院・三重支部に於ける卒業アルバム】
卒業アルバムの表紙です。「第三十三回・卒業記念 三重支部・山田病院」
「日本赤十字病院・三重支部山田病院の崇高なる理念」
海に陸に國のため進み戦ふ武士の 救ひ助くる此の道は國の内外へだてなし
はかり知られぬ天地のそのわざわひに合ふ人を 哀れみ救ふ此の道は元より廣き愛の道
あな尊しや此の道は我大君の進めます めぐみあまねき道なれどいや栄えん永遠に
【日本赤十字病院熊本支部に於ける写真】
病院内での実習
出征当日
【携帯嚢 革製】
其壱
其弐
【携帯嚢 布製】
【従軍看護婦用包帯嚢】
【日本赤十字看護婦使用の水筒】
希少な日本赤十字従軍看護婦使用の水筒です。赤十字の吹き付けペイントされています。
握り矢印の刻印があります。記名布には和歌山班 ○○とよ子と入っています。
【軍医の装備品】
陸軍軍医携帯嚢
【臺湾衛生隊醫极・大型トランク】
75x41x51cm
【駄載病院醫极・大型トランク】
80x37x60cm
【日本赤十字・救護医极】
【其の弐】
医薬品
空箱のみです。内容物は一切所持していません。
陸軍病院薬剤部・薬瓶
海軍病院薬瓶・赤十字の下に海軍の文字があります。
軍医用聴診器です。現在のステトスコープのように簡単に耳に固定出来ません。
聴診器のゴム管にはドイツ語の「Herz=心臓」の文字が読めます。
象牙から作られた聴診器(現在では象牙使用は禁止されています。)
【女学生勤労動員腕章】
福島県会津若松女子商業学校の生徒が同地区の航空機関連工場
へ動員された際に付けた腕章と考えられます。
【海軍省・志願兵徴募ポスター】
当時の現存物は少なく幻のポスターと謂われています。
【昭和19年ー20年の週刊朝日】
昭和19年から20年の版が23冊あります。時局を感じさせる広告が
裏表紙に掲載されています。当時を知る貴重な資料です。
【戦前の教科書】
「小學算術」「小學書方手本」「尋常小學唱歌」「尋常小學修身書」「尋常小學理科書」等
の書籍です。現存する実物は殆ど見ることが出来ません。
【大東亜共栄圏詳図】
大東亜共栄圏とは欧米諸国の植民地支配から東アジア・東南アジアを
開放し,東アジア・東南アジアに日本を盟主とする共存共栄の新たな
国際秩序を建設しようという,大東亜戦争において日本が掲げたスローガン
である。
【大阪偕行社附属小学校児童手帳】
設立は明治期で日本陸軍将校により作られた財団偕行社の
附属として主に軍部将校子弟の教育を目的とした学校であつた。
【満蒙開拓青少年義勇軍上衣袴】
昭和12年(1932年)11月3日に加藤完治ら6名により
「満蒙開拓青少年義勇軍編成に関する建白書」が
帝国会議に提出された。国家的政策として推進された青少年の
満蒙武装農業移民の組織であり、昭和初頭からの慢性的不況への
対応策の一つとして、日本政府が実行した政策でありました。
5男 3号 慶徳8年 満拓公社検定 土肥被服○製 の検定の
記入があります。内側はキルティングされています。満州国慶徳8年は
昭和16年にあたります。満州で生産された衣服は非常に稀少です。
【満州国・新京・関東軍司令部[慰霊]記念モダル】
【満州国・独立歩兵第三大隊[御警衛記念]メダル】
【満州引揚者の所持品】
敗戦後に満州から引き揚げて来られた兵士の所持品です。
【米軍からの伝単】
【其の壱】
桐一葉 桐葉型伝単
米軍伝単の中でも最も手の込んだ稀少な伝単です。桐葉は天皇家が菊紋を私的に、桐紋を政府機関などで使用しています。それに引っかけて作成されたのでしょう。この伝単を考案したのは戦前のアメリカで対日反戦運動を展開していた評論家の石垣綾子氏(1903-1996)で何とかして戦争をやめさせたい一心からであつた。「桐一葉 落ちて天下の秋を知る」という有名な俳句にちなんで、この伝単が「落つるは軍権必滅の凶兆なり」という「降るアメリカ」と「降る雨」をかけています。この伝単は1942年(昭和17年)4月、米海軍が空母ホーネットから長距離飛行が可能な陸軍の双発爆撃機B-25
16機を発進させ、中国大陸に着陸させるという奇策を用いて東京、横浜などを空襲した際にも撒布された様です。
【其の弐】
沖縄戦に撒いた米軍の伝単
米軍が上陸前に島の住民に対して撒いたビラです。島の住民が日本軍から離反することを
期待しているのかもしれません。初期のもので爆撃機B-17が描かれています。
米軍から日本にばら撒かれた伝単です。
【其の参】
【其の四】
大東亜共栄圏
【其の伍】
二度ある事は三度ある
【其の六】
一に養生 二に薬
【其の七】
時は迫れり
【其の八】
爆撃に対しての避難所は安全か?
ロンドン、ドイツの地下深い地下壕でも爆弾は貫通したのに、
日本では庭につくった防空壕では身を守れないと警告しています。
(12.5cmx20cm)
【其の九】
サイパン島で投降下日本人市民No2028
サイパン島で投降した日本人市民が良い扱いを受けている写真です。
(12.5cmx20cm)
【其の十】
日本陸軍の重大なる惨事
ナンバー「28J6」と記入してあります。
【其の十一】
米軍投降票・投降した日本兵の写真
ナンバー「17-J-1」が記入されています。投降票としては通常の倍の大きさですが、
片面しか印刷されていません。
【其の十二】
ナンバー「2-J-11」が記入されています。米軍情報部職員が保管していた伝単で
翻訳と整理資料が付いていました。日本陸軍が輸送船を失って、どうたって島を
まもるのだと揶揄しています。
【其の十三】
日本兵に告ぐ 米軍は医療が
ナンバー「2054」と入っています。
【其の十四】
ナンバー「2048」と入っています。関東大震災の1000倍の破壊力を持った、
「2トンから4トンの・・・米国式地震と、かなり具体的に書かれ、2-3秒で破壊しえる・・・
家屋は崩壊し、工場は消失し、皆さんの家族は死滅する・・・」
内容的には原爆そのものの威力を書いています。科学者であれば「原子爆弾」と
推測出来る内容です。米軍が新型兵器の「原子爆弾」について伝単で知らせめたのは
これが最初と思われます。
【其の十五】
伊万里の大皿にあふれるほどのにぎり鮨がのっています。裏面の文書は「仕方がない」の表題で
日本兵が負傷、病気などしたり、強力な兵器を持ったアメリカ軍の攻撃を受けた場合捕虜となるのも
仕方がない。生きていれば米軍のもとで食べ物、煙草はもらえ働けば給料ももらえる。そうすれば
鮨の大皿も食べれるであろう意味であります。
【其の十六】
下半身はいきながらにして黒く焼け焦げています。裏の文面は米軍の強力な爆撃がはじまるので、
逃げるか、指導者たちを説得して戦争を止めるしか、君たちの生き残る道は無いと説得しています。
【其の十七】
無条件による戦争停止か
【其の十八】
対岸の火事
【其の十九】
婆々芸者と軍部
【其の二十】
消えうせた宝船
【其の二十壱】
「日本人諸君」
1945年4月12日にルーズベルトが亡くなり副大統領のトルーマンが大統領と
なっています。昭和20年5-8月に撒かれた伝単です。
【ライフ誌・1941年12月22日】
アメリカが開戦直後のプロパガンダと戦意高揚の熱が伝わってくる内容です。
【ライフ誌・1945年8月20日】
【戦前ー戦中にかけての鉄砲を持ったのらくろ】
(其壱)のらくろは胸に階級賞をつけて,特務大尉まで進級しました。
【のらくろ人形】
(其弐)
【陶器製軍用犬を連れた兵士】
【大日本国防婦人・土人形】
土人形で、大日本婦人会のタスキをかけた人形が4体、旭日旗を持つ少年が1体です。
【加藤建夫隼戦闘機隊長の軍神像】
加藤建夫隊長は昭和17年5月22日ベンガル湾上空で散華されました。戦死後軍神と称えられました。
【戦艦比叡進水記念時の機雷記念品】
戦艦比叡の進水記念品です。高さ10.5cm 直径7.7cm 重さ1077gです。蓋には「ひ江い」の刻印があります。
【爆弾三勇士の文鎮】
昭和7年2月22日の未明、下元旅団の工兵(江下、北川、作江)が点火したままの爆薬筒を小脇に抱えて突撃、
鉄条網に体当たりして玉砕、わが身を犠牲にして突撃路を開いた。「爆弾三勇士」の軍歌も作られました。
【本土決戦・教官用竹やり】
当時の本土決戦用の竹やりです。上質の曲がりのない竹を選んで作成しています。持つ部分には藤が巻いてあり教官用と思われます。実際の竹やりを見たのは初めてです。長さ270cm,直径3cmです。
【徽章類】
満州国皇帝溥儀訪日記念章
【南満州鉄道!創業20周年記念】
日本軍統治のもと1906年(明治39年)に設立された南満州鉄道株式会社の
創業20周年(1926年)記念品で満鉄のレールで作られた文鎮です。
【戦跡地慰霊の旅】 【最初に戻る】