【広島陸軍幼年学校】
陸軍の中堅将校を育成する目的で,満13,14歳の少年を入校させ,3年間基礎的な教育訓練をした学校で
卒業後は陸軍士官学校を経て将校になった。体格検査と学科試験で選抜されたが,俗称「星の生徒」といわれて
少年たちのあこがれの的であった。広島陸軍幼年学校は1896年(明治29年)陸軍地方幼年学校条例が制定された
翌年の9月1日,市内の西錬兵場にあった臨時帝国議会の議事堂を仮校舎としたのが始まり。
同年11月には広島市基町の広島城に本校舎を新築,移転した。1928年(昭和3年)軍縮のためいったん廃校になったが,
1936年4月,旧校舎跡に生徒数150人で再び開校した。翌年3月には広島城北側の歩兵第71連隊跡に移転,
生徒は各学年150人,3学年で450人になった。原爆で校舎は壊滅したが在校生は,県下の吉田町,上下町,庄原市へ
分散疎開していたため、人員の被害は少なかった。終戦により廃校。開校から終戦まで49期,累計3345名の将校生徒を
育成した。
「広島県大百科辞典」より引用しました。
廣島幼年学校全影(廣島市基町の廣島城郭内)
広島陸軍幼年学校の正門
(後に広島第一陸軍病院本院の正門となります。)
航空写真による広島陸軍幼年学校全影
広島陸軍地方幼年学校は明治30年から昭和12年3月までは廣島城の南側にありました。
(後に廣島第一陸軍病院本院と呼称されました。)
#1:廣島陸軍地方幼年学校の正門
(航空写真は米国国立公文書館蔵から引用)
広島陸軍幼年学校は昭和12年以降廣島城の北側に移転しました。
#1:廣島城 #2:将校集会場 #3:大講堂 #4:本部
(航空写真は米国国立公文書館蔵から引用)
廣島城の天守閣から見た廣島陸軍幼年学校:手前から#1:将校集会場,#2:大講堂,#3:本部,生徒舎
ここからは昭和17年4月広島陸軍幼年学校に入学された坂○源○生徒の貴重な写真です。
瀧川一摩校長,片岡太郎生徒監,東條英機首相の御遺影もあります。
【昭和17年4月1日・第四十六期生トシテ廣島陸軍幼年校ニ入校ス】
【昭和17年5月8日・廣島厳島ニ於ケル終日訓練ニテ】
向ツテ右ヨリ
岩城教官(東洋歴史) 竹野教官(幾何学) 加藤教官(幾何学) 坂口教官(物理・化学・工作)
南波教官(国語甲) 瀧川一摩校長 友廣教官 堀内少佐 大塚教官 長井少佐 伊集院大尉 長野大尉 丸山教官
昭和17年10月9日天皇陛下の御命令により山縣侍従武官を廣島陸軍幼年学校に派遣され,侍従武官は学習状況を視察しました。
太田川(?)での水泳
昭和17年12月2日廣島陸軍幼年学校の大講堂にて東條英機首相の講義
当時の新聞記事
昭和17年11月8日の運動会【人梯ノ光景】
【軍犬競争】前に乗レルハ片岡太郎生徒監殿後ノハ校長殿・左端ノ建物は生徒集会所
【二年生の天幕競争】
【棒倒しの光景】
【3年生操縦のグライダー飛行】
【廣島陸軍幼年学校内肇國神社前での集合写真】
【第四十七期生第五学班】
【廣島陸軍病院入院時】
廣島陸軍病院娯楽室前ニテ
殉国・愛国の一念にすべてを集結して純情の熱血に猛精進した若き青年時代
・・・・・幼年校三年生・・・・・
時代が無精に懐かしい。失ふ勿れ 若き現役の気持
【参考文献】
●片岡太郎追悼録:広島陸軍幼年学校
第45期第1訓育班発行
●陸士☆陸幼 日本の戦史別巻:毎日新聞社
【追加】
或る一兵士の軍隊手帳
履歴
昭和15年4月1日:廣島陸軍幼年學校
第44期生として入校
昭和16年4月1日:第二學年ニ進級
昭和17年4月1日:第三學年ニ進級
昭和18年3月16日:廣島陸軍幼年學校卒業
第二十期生卒業記念アルバム
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