【投降票】


【其の壱】
《表面》
奥さんと子供に会えるチケット


《裏面》
@白旗をかかげて日本軍陣地に来ること。
A銃口を下に銃は左肩後ろにかけること。
Bこのチケットを歩哨に提示すること。
Cこれ一枚で何人でも投降できる。

大日本軍司令本部
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【其の弐】
《表面》
「Ticket to armistice」
(停戦へのチケット)













【其の参】








【爆弾三勇士の写真帖】

昭和七年ニ月ニ十二日の未明,下元旅団の工兵三名が点火したままの爆薬筒を小脇に抱えて突撃。敵陣の鉄条網に体当りして玉砕,わが身を犠牲にして突撃路を開いた−−−というニュースは銃後の人々を感動させ,映画,演劇,浪曲となって上演されました。この写真帖は江下伍長,北川伍長そして作江伍長の肖像と突入の絵が写真になっています。

【爆弾三勇士】
廟行鎮の敵の陣 我の友隊すでに攻む 折から凍る如月の 二十ニ日の午前五時 
命令下る正面に 開け歩兵の突撃路 待ちかねたりと工兵の 誰か後をとるべきや
中にも進む一組の 江下 北川 作江たち 凛たる心かねてより 思うことこそ一つなれ
我等が上に戴くは 天皇陛下の御稜威 後に負うは国民の 意志に代れる重き任
いざ此の時ぞ堂々と 父祖の歴史に鍛えたる 鉄より剛き「忠勇」の 日本男子を顕すは
大地を蹴りて走り行く 顔に決死の微笑あり 他の戦友に遺せるも 軽く「さらば」と唯一語 
時なきままに点火して 抱き合いたる破壊筒 鉄条網に到りり着き 我が身もろとも前に投ぐ
轟然おこる爆音に やがて開ける突撃路 今わが隊は荒海の 潮の如くに躍り入る
ああ江南の梅ならで 裂けて散る身を花と成し 仁義の軍に捧げたる 国の精華の三勇士
忠魂清き香を伝え 永く天下を励ましむ 壮烈無比のの三勇士 光る名誉の三勇士 三勇士






【中勇義烈肉弾武勇士】
8枚セットになっています。陰画の兵士像を2分間見続けて、白い壁や紙を見ると、網膜の残像現象で兵士の顔が浮かびあがると言う物です。















【昭和11年3月4日  二・二六事件】

昭和11年2月25日夜半から東京に降った雪は26日朝には30年ぶりという大雪になっていた。21人の青年将校が指揮する歩兵第一連隊・同第三連隊・近衛歩兵第三連隊の下士官・兵1453人と民間人9人は雪をけって首相・侍従長官邸 内大臣・蔵相・教育総監私邸湯河原の伊藤屋旅館貸別荘を襲撃し内大臣・斎藤実 蔵相・高橋是清 教育総監・渡辺錠太郎を殺害 侍従長・鈴木貫太郎に重傷をおわせた。





【昭和11年7月7日・二二六事件判決号外】
読売新聞と朝日新聞の、2.26事件判決の号外です。10名に死刑の判決が出ています。











【昭和12年11月7日・日独伊防共協定成立】

ナチスが率いるドイツは1933年(昭和8年),軍備の不平などを理由に国際連盟を脱退しました。1935年(昭和10年)にはザール地方を併合し,ヴェルサイユ条約を破棄して再軍備を行い英独海軍協定を結び,海軍の拡張を認めさせました。1936年(昭和11年)にはロカルノ条約も破棄ラインラント非武装地帯へ進駐しました。同年にイタリアとベルリン=ローマ枢軸を形成し,1937年(昭和12年)には日本と日独伊防共協定を結びました。





【号外・東條内閣組閣・昭和16年10月18日】






【昭和16年12月9日・日米開戦を伝える当時の新聞】






【大阪毎日新聞号外】




【旗艦アリゾナ撃沈・昭和16年12月14日】







【真珠湾攻撃詳報・昭和17年1月1日報知新聞】

昭和16年12月2日ハワイに向かって航行中の南雲部隊に,山本五十六連合艦隊司令長官から電文が発せられました。「ニイタカヤマノボレ一二0八」。12月8日東の空がかすかに明るくなりはじめた頃六隻の空母から淵田光津雄中佐が率いる第一次攻撃隊百八十三機が発艦真珠湾攻撃に向かいました。写真は真珠湾内米艦船雷撃刹那の光景です。




【陸海軍落下傘部隊南海で初陣・パレンバン飛行場等を占領・昭和17年2月16日】

昭和17年1月11日海軍の落下傘部隊がセレベス島のメナドに初降下すると,陸軍の落下傘部隊はスマトラ,パレンバンの空に純白の花を咲かせました。

【空の神兵】
藍より蒼き大空に大空に 忽ち開く百千の 真白き薔薇の花模様
見よ落下傘空に降り 見よ落下傘空を征く 見よ落下傘空を征く

世紀の華よ落下傘落下傘 その純白に赤き血を 捧げて悔いぬ奇襲隊 
この青空も敵の空 この山河も敵の陣 この山河も敵の陣

敵撃崔と舞い降る まなじり高きつわものの いずくか見ゆるおさな顔
ああ純白の花負いて ああ青雲に花負いて ああ青雲に花負いて

讃えよ空の神兵を神兵を 肉弾粉と砕くとも 撃ちてしやまぬ大和魂
わが丈夫は天下る わが皇軍は天降る わが皇軍は天降りる







【シンガポール陥落・昭和17年2月17日】
昭和17年2月15日シンガポールが陥落した日,亡き戦友の遺骨を胸に入城した作詞者はその感激を陣中新聞「建設戦」に投稿しました。
この詩に南西方面艦隊軍楽隊の松井孝造が作曲,陸海軍将兵の前で発表されるとたちまち現地で広く愛唱されました。

【戦友の遺骨を抱いて】
一番のりをやるんだと  力んで死んだ戦友の  遺骨を抱いて今入る  シンガポールの街の朝
男だなんで泣くものか  噛んでこらえた感激も  山からおこる万歳に 思わずほほがぬれてくる  
負けずぎらいの戦友の  遺品の国旗をとりだして  雨によごれた寄書を  山の頂上に立ててやる  
友よ見てくれあの凪いだ  マラッカ海の十字星  夜を日についだ進撃に  君と眺めたあの星よ
シンガポールは陥しても  まだ進撃はこれからだ  遺骨を抱いて俺は行く  守ってくれよ戦友よ




【空の軍神陸軍葬・加藤「隼」戦闘機隊・昭和17年9月23日】





加藤建夫陸軍少将は加藤隼戦闘隊として有名な飛行第64戦隊長,個人撃墜数は18機,1942年5月22日ベンガル湾上空で
英軍爆撃機ブレニムと交戦し壮烈な戦死を遂げられました。

【加藤隼戦闘隊の歌】
エンジンの音轟々と  隼は征く雲の果て  翼に輝く日の丸と  胸に描きし赤鷲の  印はわれらが戦闘機                                   寒風酷暑ものかわと  艱難辛苦打ち耐えて  整備に当たる強兵が  しつかりやって来てくれと  愛機に祈る親ごころ
過ぎし幾多の空中戦  銃弾唸るその中で  必ず勝つの信念と  死なばともにと団結の  心で握る操縦桿                                  干戈交ゆる幾星霜  七度重なる感状の  勲の蔭に涙あり  ああ今は亡き武士の  笑って散ったその心
世界に誇る荒鷲の  翼伸ばせし幾千里  輝く伝統受けつぎて  新たに興す大アジア  われらは皇軍戦闘隊
 

【山本五十六元帥戦死・昭和18年5月22日朝日新聞】

山本長官は前線の士気を鼓舞する為に,ブーゲンビル島のブイン基地などの視察を予定していた。長官一行のスケジュールは米軍に暗号を解読され昭和18年4月18日,16機のP38戦闘機がブーゲンビル上空で長官機を襲いました。最高指揮官が戦死するという前代未聞の出来事は1ケ月間秘密にされ5月21日に公表されました。この山本五十六元帥戦死は翌朝に報道されました。

【海ゆかば】
海ゆかば 水潰く屍 山ゆかば 草むす屍 大君の 辺にこそ死なめ かえりみはせじ
#注:歌詞は日本最古の歌集「万葉集」にある奈良時代の歌人大伴家持の歌で昭和十二年に信時潔が作曲したものです。





【最初の特攻隊員関行雄大尉・昭和19年11月9日】
昭和19年10月24日フィリピン沖海戦はわが国の連合艦隊が事実上,消滅してしまった悲惨な戦いでしたが,翌25日には神風特攻第一陣が出撃し敵の心胆を寒からしめました。飛行機ごと敵艦に体当たりして,我が身もろとも軍艦を轟沈させるという,日本海軍最後の切り札は全世界にショックを与えました。最初の特攻隊員(敷島隊)関行雄大尉は昭和19年10月25日米軍空母
セントローに突入して撃沈しました。其の他の特攻壮士は中野磐雄一飛曹,谷暢夫一飛曹永峰肇飛長,大黒繁男飛曹,菅川操飛長でした。

【嗚呼神風特別攻撃隊】
無念の歯がみこらえつつ 待ちに待ちたる 決戦ぞ 今こそ敵を屠らんと 奮い起ちたる若桜

この一戦に勝たざれば 祖国の行くていかならん 撃滅せよの命うけし 神風特別攻撃隊

送るも征くも今生の 別れと知れどほゝえみて 爆音高く基地をける あゝ神鷲の肉弾行
 
神風特別攻撃隊

大義の血潮雲そめて 必死必中体当り敵艦などて逃すべき 見よや不滅の大戦果

凱歌はたかく轟けど 今はかえらぬ丈夫よ千尋の海に沈みつつ なおも皇国の護り神

熱涙伝う顔あげて 勲をしのぶ国の民永久に忘れじその名こそ 神風特別攻撃隊 

神風特別攻撃隊






【壮烈アッツ島全員玉砕・昭和18年5月31日】




【神潮(回天)特別攻撃隊菊水隊の成果を報じる朝日新聞・昭和20年3月25日】







肉弾潜艇生みの親殉職
一発必中よく敵空母戦艦を轟撃沈し去るこの肉弾特殊潜航艇の構想こそ,必死必殺以外に戦局打開の道なしと断定した菊水隊の仁科中尉,黒木大尉らによつて昨春来研究に着手され,爾来幾多血と涙の紆余曲折を経てついに比島戦局急を告げる昨年秋,神潮特別攻撃隊として開花したのである,しかし仁科中尉らと共に肉弾特殊潜航艇の生みの親である黒木大尉は無念訓練半ばの昨年九月六日「わが屍を乗り越えて進め」と佐久間艇長の最後にも似たる壮烈な殉職を遂げたのであつた。


【廣島・長崎の原爆の猛焔/昭和20年9月5日】
昭和20年8月6日廣島,8月9日長崎に投下された原子爆弾爆発の瞬間を米機上から撮影された写真です。





【原子爆弾廣島市に炸裂直後の状況/昭和20年9月13日】




【ミズリー号艦上で調印式/昭和20年9月3日】





【The Evening Bulletin /August 14,1945】
既に米国では1945年8月14日には日本降伏の情報は入っていたと証明出来る新聞です。














【敗戦日号外・高知新聞・昭和二十年八月十五日】













【大東亜戦争の録音版・開戦のラジオ放送から】

昭和17年ー18年頃の発売と思われます。開戦のラジオ放送、東條英機首相
の演説香港攻略からビルマラングーン入城のラジオ放送が入っています。




















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【軍医少尉の資料館】