【広島市における原子爆弾に関する調査】


1945年8月6日の広島被爆後に呉海軍工廠の三井再男海軍大佐ら12名が現地調査してまとめた原爆の詳しい投下状況と被害実態の報告書です。後年になって和文タイプで打ち直され,それを青焼きコピーしたものです。呉鎮守府司令部名で昭和20年08月08日に緊急作成された「軍極秘・八月六日廣島空襲被害状況調査報告概要」は直接実物からコピーされました。人的・物的あらゆる方面に及びます被害状況は.大本営発表として新聞,ラジオで報じられたものとはまったく相違していたことは言うまでもありません。広島市内では,人はもちろん,牛も馬も鳥も魚も,蝿一匹さえも生存していなかったと記述されています。廣島市内数十ケ所で放射能濃度が測定され,廣島日本赤十字病院の倉庫に保管されていたレントゲンフイルムがが全部感光していたとの記述も載っていました。この資料は広島市が1971年に編集・刊行した「廣島原爆戦災誌 第1巻」の中に一部のみが再録されています。全文が記載されておりますこの文献(複写)はおそらく現存する希少なものと考えられます。





















文献とともにネガフイルムも保存されていました。現像しました写真を提示します。
未公開の写真も存在します。


[廣島原爆写真]

【写真1】



【写真2】



【写真3】
呉市吉浦ヨリ爆煙ヲ望ム



【写真4】
(上)全壊セル日本家屋爆心ヨリ約2500米
比治山下爆心方向ハ写真向ッテ右

(下)半壊セル日本家屋爆心ヨリ約2500米
比治山下爆心方向ハ写真向ッテ右




【写真5】
(上)輻射熱ニ依リ焦ゲタル板爆心ヨリ約1500米
文理大構内防空壕入り口

(下)輻射熱ニ依リ焦ゲタル電柱爆心ヨリ約2500米
比治山下





【写真6】
(上)破壊セラレタル鉄筋コンクリート建物爆心付近
上方ヨリ加圧サレタル状況
(下)同上(廣島海軍監館官事務所別館)
爆心ヨリ200米付近
爆心ニ面セル部ガ圧壊セラレタル状況




【写真7】
(上)爆弾ト共ニ投下セル電気兵器(外観)
(下)同上 解剖




【写真8】




【写真9】
(上)輻射熱ニヨリ焦ゲタル軍帽黒線ノミ焼失セル状況
(下)輻射熱ノ影響ヲ受ケタル時間表
廣島駅(爆心ヨリ約2500米)
汽車時間表,黒字ノミ焼失セル状況




【写真10】

(上)破損セル相生橋爆心ヨリ約500米
爆心方向ハ写真ニ向ツテ左手前
鉄柱入コンクリート橋棚ハ河中ニ落下
人道ハ波状ニ浮ビ上リ車道トノ間ニ
間隙ヲ生ジタ状況

(下)方向ヲ転ジ脱線セル市電爆心ヨリ約500米
爆心方向写真ニ向ッテ右手前




【写真11】
(上)電気兵器
(下)同上




【写真12】
(上)電気装置
(下)同上




【写真13】
(上)電気装置
(下)同上




【写真14】
(上)倒木
爆心ヨリ約300米枝ヲ吹飛サレタル状況
圧ハ上方向ヨリ来ルモノノ如シ
(下)輻射熱ニヨリ焦ゲタル街路樹
爆心ヨリ約2500米木ノ左半面ノ葉ガ褐色トナレル状況




【写真15】
(上)破損セザル防空壕爆心付近
四寸角程度ノ木材ヲ柱梁ニ使用

(下)破壊セラレタル防空壕
爆心ヨリ約300米西練兵場内
支柱ニハ2寸〜3寸角程度ノモノ使用
天井ニハ四分板ヲ並ベタルモノ




【写真16】
(上)倒木爆心ヨリ約800米
西練兵場北側道路
倒木径根本5寸〜3寸程度ノモノ
(下)倒木場所同上





救護トラックに収容されたものの,声もかすかに
「おじちゃん,水ちょうだい」と訴えるだけの幼い犠牲者
富国生命ビル臨時救護所前にて


廣島第ニ陸軍病院構内,太田川土手の
臨時救護所に収容された負傷者


外科外来治療室には毎日子供たちが
つめかけて来ました。






【広島原爆戦災誌】

【広島原爆戦災誌・第一巻】










【広島原爆戦災誌・第ニ巻】











【広島原爆戦災誌・第三巻】










【広島原爆戦災誌・第四巻】




















【広島原爆戦災誌・第五巻】
















【ポール・ティベッツ】
1945年8月6日、広島に原子爆弾「リトルボーイ」を投下したB-29爆撃機「エノラ・ゲイ」の機長である。1944年12月、原爆投下実行部隊の第509混成部隊の部隊長を拝命し、部隊を編成する。以降ネバダ砂漠の秘密基地にて原爆投下の演習を繰り返し、翌年1945年、部隊を太平洋のテニアン島に移す。そして第509混成部隊は日本本土にてパンプキン爆弾と呼ばれる模擬爆弾を使い、京都、広島、新潟、小倉などを爆撃し百数名あまりの日本人の犠牲者を出しながら原爆を投下する場所を広島に選定した。1945年8月6日午前2時45分、ポール・ティベッツはB-29爆撃機「エノラ・ゲイ」をテニアン島から離陸させた。同機は北に向かって7時間飛行し日本列島に到着した。そして午前8時15分、彼は命令に従い広島上空で原子爆弾を投下した。B-29爆撃機につけられた名前の「エノラ・ゲイ」とはティベツツの母親の名前である。(Wikipediaから引用)
本人直筆のサインされた写真を入手しましたので掲載します。









【原爆投下を告げる伝単】
















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