【国際キ105試作輸送機(鴻・おおとり)の垂直尾翼リブ】
滋賀県八日市市に陸軍の飛行場がありました。そこで軍属でしたお方から譲りうけました
貴重な木製垂直尾翼リブです。
桁を通す穴の位置などが,鉛筆で書いてあります。ベニヤを多用してあります。
昔の日本人の勤勉さと気骨が感じられる遺品です。長さ:264cm,最大幅:20.5cm,厚さ:6.5cm。
【国際キ105試作輸送機】 ク7II大型輸送滑空機に発動機を装備した大型輸送機。
ク7及びキ105の設計試作は日本国際航空工業の京都製作所で行われていました。
このために同社では京都製作所大久保工場に木造では日本最大といわれた大組立工場を
建設していました。
部品の製作は京都周辺の家具工場が動員され,総組立をこの大工場で実施されたが,
各ブロックの組立には小学校の講堂なども利用されました。そして,終戦当時,
組立工場に完成間近の機体が50機前後並んでいましたが,終戦までに完成したのは
9−10機で,うち7機が飛行検査を終えていました。
【日本陸軍物資投下筒(柳行李製)】
空挺部隊が物量落下傘に取り付けて支援物資の投下に使用した筒です。
本体は柳行李製で蓋は木製です。現在の滋賀県東近江市にありました
八日市飛行場に配属されていた「陸軍航空第三大隊」で使用されていた
ものです。
【風船爆弾紙嚢片・風船爆弾報告書】
米国に到達した風船爆弾の報告書とその実物の紙嚢の一部です。手すきの美濃紙で
出来ており、薄く透いた和紙をこんにやく糊でくっつけたものです。高度1万メートルの偏西風は、
時速100キロで西から東へふいており、風船爆弾は約3日でアメリカに到着しました。
約1万個近くを打ち上げて、実際は1000個近くが到達したらしいのですが、
アメリカは報道管制をして到達を秘密としていました。
実物の風船爆弾の紙は、昭和20年に太平洋を渡り、平成10年に日本に戻ってきた
唯一の物となります。
【特小型潜水艦建造記事・三菱潜水艦建造史・蛟龍特殊潜水艇建造記事】
書いた方は製造責任者か設計者と思われ昭和22年という記憶が薄れないうちに記録しておこうと書いた書類です。
【明治初期の海軍・軍隊手帳】
この手帳の所持者は安政5年生まれで、富士山艦・雷電丸に乗艦しています。富士山艦は日本海軍の最初の軍艦です。日本海軍の軍隊手帳としては最古のものと考えられます。安政5年(1858年)は安政の大獄の事件で有名です。
【富士山艦】
1862年10月14日(文久2年閏8月21日、幕府は米国に対しスループ2隻及びガンボート1隻を
発注した。
富士山艦はその最初の1隻として1864年6月に完成したが、下関戦争の勃発により
リンカーン大統領は富士山艦の出航を差し止め、その他の軍艦の製造も中止された。
結局、富士山艦が、日本に到着したのは1866年1月23日(慶応元年12月23日)であった
1868年(慶応4年)に幕府から明治政府に上納されたため、日本海軍創始となる艦である。
1871年(明治4年)より海軍兵学校の初代練習艦となった。
【軍艦安芸・海軍手帳・航海日誌】
大正9年度航海日誌と海軍手帳航海日誌は5月4日の
軍艦安芸の乗船から1月28日の帰還まで詳細に記入されています。
[其弐]
海軍の携帯履歴。昭和6年呉鎮守府で戦艦日向に乗り込んでいます。
昭和14年に舞鶴鎮守府に移って、昭和17年に二等兵曹になっています。
【関係文献】
「湖国に模擬原爆が落ちた日・水谷孝信著」:別冊淡海文庫
「太平洋戦争・日本陸軍機」:株式会社文林堂
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【軍医少尉の資料館】